増支部経典: 一集・二集・三集

ฉบับแปลญี่ปุ่น · Sutta Piṭaka — The Basket of Discourses · Volume 20 · 138 pages

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  1. Page 1–3 ルーパーディ・ヴァッガ(色等品):男女の心を支配するもの 仏陀は比丘たちに、女性の色・声・香・味・触ほど男性の心を支配する色・声・香・味・触は他にないと説き、逆に女性の心についても同様であると説かれた。これは五欲が男女両性の凡夫の心に及ぼす力を示すものである。増支部(アングッタラ・ニカーヤ)一集の冒頭の章であり、感官の対象を一つずつ順に取り上げる反復形式で説かれている。
  2. Page 3–5 ニーヴァラナパハーナ・ヴァッガ(蓋断品) 仏陀は、五蓋――欲貪(カーマッチャンダ)、瞋恚(ビャーパーダ)、惛沈睡眠(ティーナミッダ)、掉挙悪作(ウッダッチャ・クックッチャ)、疑(ヴィチキッチャー)――が生じ、あるいは増大する原因は何か、またそれらが生じず、あるいは捨てられる原因は何かを、対にして説かれた。たとえば、浄相(美しい相)に対する非如理作意は欲貪を生じさせ、慈心解脱を修めることは瞋恚を捨てる因となる。これは瞑想修行者が五つの心の障害を観察し対処するための基本的な実践の指針である。
  3. Page 5–7 チッタ・ヴァッガ(心品):修められていない心と修められた心 仏陀は、修められていなければ大きな害をもたらし、修められれば大きな利益をもたらすものとして、心に並ぶものは他にないと説かれた。現れない・現れる、多く修さない・多く修するなど、さまざまな観点から繰り返し、訓練されていない心は苦をもたらし、よく訓練された心は楽をもたらすと強調された。これは、あらゆる法の実践の基盤として心を修めることの重要性を強調するものである。
  4. Page 7–9 アダンタ・ヴァッガ(不調品) 前の章に続き、仏陀は、調御されず、守られず、護られず、制御されていない心は大きな害をもたらし、調御され、守られ、護られ、制御された心は大きな利益をもたらすと説かれた。最後にこれら四つの性質をまとめた経で締めくくられる。心をあらゆる面から守り保つことこそが苦からの解放の鍵であることを繰り返し示している。
  5. Page 9–11 パニヒタッチャ・ヴァッガ:籾の芒、澄んだ池、光り輝く心の譬え この章は深い譬えに満ちている。まず、稲や麦の芒は向きを誤って置かれれば手を刺さないが、正しく置かれれば刺すように、誤って向けられた心は無明を破って涅槃を得ることができないと説かれる。続いて、心の汚れた人は地獄に赴き、心の澄んだ人は天界に赴くこと、濁った池と澄んだ池では水中のものが見えるか見えないかが異なるという譬え、あらゆる木の中で最も優れた栴檀をよく修められた心に喩える譬えが示される。最後は「この心は光り輝いている(パバッサラ)が、外来の随煩悩によって汚れている」という有名な仏陀の言葉で締めくくられ、これは心の本来の性質に関する重要な教えである。
  6. Page 11–13 アッチャラーサンガータ・ヴァッガ(弾指品) この章は光り輝く心の教えをさらに展開し、教えを聞いたことのない凡夫は心が汚れているか解脱しているかを如実に知らないため心の修習がないが、教えを聞いた聖弟子はそれとは異なると説く。次に、比丘がたとえ指を弾くほどの一瞬でも慈心を修めるならば、禅定を欠かない者であり、師の教えを実行する者であり、国の人々が施した食を空しく受ける者ではないと説かれる。最後に、善であれ不善であれ一切の法は意を先導とし、意が先に生じるという原理、そして放逸や怠惰こそが不善法を増し善法を衰えさせる唯一の原因であることが示される。
  7. Page 13–16 ヴィリヤーランバーディ・ヴァッガ(精進等品):善法の増大と衰退の条件 善法を衰えさせ、あるいは増大させる性質を対にして順に挙げる短い経の集まりである。すなわち、精進を起こすことと怠惰、少欲と多欲、不知足と知足、如理作意と非如理作意、善友と悪友である。それぞれの対は同じ反復形式で、その性質こそがまだ生じていない不善法を生じさせ、すでに生じた善法を衰えさせる唯一の原因である、あるいはその逆であると示される。修行者が自らの内に観察すべき基本的な心の条件についての教えである。
  8. Page 16–18 カッラーナミッタ・ヴァッガ(善友等品) 前の章に続き、善友が善法を増大させる因であること、善・不善の法に親しむか親しまないか、そして如理作意か非如理作意かが七覚支を生じさせ、完成させるか否かの因となることが説かれる。次に、親族・財産・名声を失うことはいずれも些細なことであるが、智慧を失うことは最悪の衰退であると比較し、比丘たちに智慧の増大のために学ぶことを何よりも心がけるよう教えられた。
  9. Page 18–21 パマーダーディ・ヴァッガ(放逸等品):大きな利益と害の条件 この章では、放逸、怠惰、多欲、不知足、非如理作意、悪友という同じ一連の性質とその反対の性質が、新たな枠組みで繰り返し説かれる。それぞれが直接に大きな害、あるいは大きな利益をもたらす唯一の原因であるとされ、もはや善・不善法の生起や衰退に特定して結びつけられてはいない。より広い視点から、これら基本的な徳の重要性を改めて強調するものである。
  10. Page 21–23 利益と害の内的要素と外的要素 仏陀は、放逸と不放逸、怠惰と精進などの同じ一連の性質を二つの要素に分けられた。すなわち、自らの心の性質を指す内的要素(アッジャッティカ・アンガ)と、善友・悪友をもつことや法に親しむことを指す外的要素(バーヒラ・アンガ)であり、いずれも大きな害または大きな利益をもたらす唯一の原因であるとされる。これは、個人の内的な要因と社会的な環境要因の両方が、法の増大や衰退に影響することを示している。
  11. Page 23–25 正法の衰退と存続の原因 同じ一連の性質が、個人を超えたより大きな文脈で再び示される。すなわち、正法が混乱し消滅する原因、あるいは正法が確立して混乱しない原因としてである。たとえば、放逸は正法を衰えさせる因であり、不放逸は正法を存続させる因である。これは個人の徳を仏教全体の存続と結びつけるものであり、一法(エーカダンマ)パーリの第十章を締めくくる。
  12. Page 25–28 正法を損なう比丘と保つ比丘 仏陀は、法でないものを法と説き、法を法でないと説き、律でないものを律と説き、如来が語ったこと・語らなかったこと、行ったこと・行わなかったこと、制定したこと・制定しなかったことを歪める比丘を非難し、それは多くの悪を生み、正法を損なう原因であると説かれた。反対に、真実に即して正しく説く比丘は多くの功徳を得、正法を保つ助けとなる。最後に、罪(アーパッティ)の種類を誤って、あるいは正しく判定すること――軽い・重い、残余のある・残余のない、懺悔によって正せる・正せないなど――も、同様に仏教に影響を及ぼすことが述べられる。
  13. Page 28–30 エーカプッガラ・パーリ:世に並ぶもののない一人の人 新たな法の区分であり、世に現れると多くの人々の利益と安楽のためとなる唯一の人、すなわち如来・阿羅漢・正等覚者について説かれる。その出現は世にきわめて稀であり、比類のない稀有な人であること、その般涅槃は多くの人々を悲しませること、そしてその出現は大いなる光明とさまざまな道果の証得をもたらすことが示される。最後に、如来が転じた法輪を正しく転じ続ける者としてサーリプッタ(舎利弗)がこの上なく称えられる。
  14. Page 31–34 エータダッガ・パーリ:弟子たちの第一 仏陀は、それぞれの弟子がさまざまな資質において他に勝る第一の者であると宣言し称えられた。比丘の部では、たとえばアンニャー・コンダンニャが長老として第一、サーリプッタが大いなる智慧において、モッガッラーナ(目連)が神通において、アーナンダ(阿難)が多聞と侍者において第一とされる。比丘尼の部ではマハーパジャーパティー・ゴータミー、ケーマー、ウッパラヴァンナーなど、優婆塞の部ではアナータピンディカ長者など、優婆夷の部ではヴィサーカーなどが挙げられる。これは四衆の名誉の名簿であり、仏弟子たちの能力と徳の多様さを示している。
  15. Page 34–36 アッターナ・パーリ第1部:正見を具えた者にありえないこと 仏陀は自然の法則として、見を具えた人、すなわち預流以上の聖者が、いかなる形成されたもの(行)をも常・楽・我と見ることはありえず、凡夫にはそのような誤った見方をする可能性があると説かれた。また、見を具えた者が母・父・阿羅漢を殺すこと、如来を傷つけて血を流させること、僧団を分裂させること、他の師を尊ぶことはありえず、一つの世界に二人の阿羅漢・正等覚者が同時に出現することもありえないと示された。
  16. Page 36–39 アッターナ・パーリ第2部:女性と最高の地位、そして業の法則 前の部に続き、一つの世界に二人の転輪聖王が同時に出現することもありえないこと、また女性が阿羅漢・正等覚者、転輪聖王、帝釈天(サッカ)、魔(マーラ)、梵天となることはありえず、これらの地位は男性のみのものであると説かれる。次に業の法則として、身・口・意の悪行が望ましい結果をもたらすことはありえず、三つの善行が望ましくない結果をもたらすこともありえないこと、さらに悪行を行う者は悪趣に赴き、善行を行う者は必ず善趣に赴くことが示される。
  17. Page 39–40 アパラ・エーカダンマーディ・パーリ:涅槃の因としての十随念 一法の新たな区分が始まる。仏陀は、ある一つの法を修め多く行うならば、それはひたすら厭離、離貪、滅、寂静、証知、正覚、涅槃へと導くと説かれた。それは十の随念を修めることであり、すなわち仏随念・法随念・僧随念・戒随念・捨随念・天随念・安般念(入出息念)・死随念・身至念・寂止随念である。これは随念の瞑想を解脱への道として紹介するものである。
  18. Page 40–43 邪見と正見:苦い種と甘い種の譬え 仏陀は、不善法を増大させ善法を衰えさせる唯一の原因として邪見に並ぶものはなく、その逆の原因として正見に並ぶものはないと説かれた。また、それらはそれぞれ衆生を悪趣あるいは善趣へ赴かせる因でもある。次に、邪見の人にとっては身業・口業・意業・意思・願いのすべてが望ましくないものへと導き、それはニーム(インドセンダン)の種や苦いヒョウタンの種が良い土に植えても常に苦い実を結ぶようなものであると喩えられた。反対に正見の人にとってはすべてが望ましい結果へと導き、それはサトウキビや稲の種が常に甘い実を結ぶようなものである。
  19. Page 44–46 人々を誤った道あるいは正しい道に導く人、よく説かれた法と悪しく説かれた法 仏陀は、邪見をもつただ一人の人が多くの人々を正法から非法へと導き出しうること、それに対し正見の人は人々を正法へと連れ戻すことを示し、邪見より大きな罪はないと説かれた。マッカリ・ゴーサーラを、多くの衆生の破滅のために生まれた愚かな者の例として挙げ、河口に仕掛けられて魚を害する網に喩えられた。次に、悪しく説かれた法と律においては、勧める者も勧められる者も共に悪を得、施す者は自ら量を知るべきであり、精進する者はかえって苦しむが、よく説かれた法と律においてはその結果が逆になることが示される。さらに、ごくわずかな生存(有)であっても仏陀は称賛されず、それはわずかな量の糞や尿でも悪臭を放つようなものであると喩えられた。
  20. Page 46–48 尊い機会の得がたさの譬え 仏陀は、ジャンブ洲(閻浮提)において園林や森のような心地よい土地は少なく、でこぼこした土地や断崖が多いのと同じように、陸に生まれる生き物は水中の生き物より少なく、人間に生まれる生き物は人間以外の生き物より少なく、中国(マッジマ地方)に生まれる者は辺地に生まれる者より少なく、智慧ある者は愚かな者より少ないと喩えられた。そして、如来に会い、法を聞き、法を記憶し、意味を吟味し、法に従って実践し、畏敬の念(サンヴェーガ)を起こし、三昧を得て、あるいは義・法・解脱の味を味わう者は、そうでない者よりもはるかに少ないと説かれた。これは法を実践するというきわめて得がたい機会の価値を悟らせるための戒めである。
  21. Page 48–50 悪趣に比べて善趣に生まれることの得がたさ 前の章と同じく、心地よい土地はでこぼこした土地より少ないという譬えを用いて、人間として死んで再び人間に生まれる衆生は少なく、地獄・畜生・餓鬼の境涯に生まれる者の方が多いことが示される。天から、地獄から、畜生から、餓鬼の境涯から死んだ場合についても同様に、輪廻のすべての組み合わせが順に挙げられる。これは、善趣に生まれること、とりわけ再び人間や天として生まれることが、悪趣に堕ちることに比べてきわめて稀であることを強調するものである。
  22. Page 50–52 浄信を生む法と一瞬の禅定の修習 パサーダカラ・ダンマーディ・パーリの区分が始まり、森に住むこと、托鉢を行うこと、糞掃衣を用いること、三衣を持つこと、多聞であること、説法者・持律者であること、少欲であること、病が少ないことは大きな利得であると説かれる。次に同じ形式で繰り返し、比丘がたとえ指を弾くほどの一瞬であっても、初禅から第四禅、四梵住、四念処、四正勤、四神足、五根、五力、七覚支、八正道を修めるならば、禅定を欠かない者であり、在家の人々が施す一口の食を受けるにふさわしいと教えられる。
  23. Page 52–55 瞑想の対象の一覧と大海のような身至念 この部分では、指を弾くほどの一瞬であっても修めるという同じ反復形式で、多くの瞑想の対象が順に挙げられる。すなわち、内外の色(形あるもの)のさまざまな観察、四無色禅、十遍処(カシナ)、不浄想、死想、食厭想、無常想、苦想、無我想、そして禅定や梵住とともに十随念を修めることである。最後に、身至念を修め多く行う者には、明(ヴィッジャー)に属するあらゆる善法がその身至念の中に含まれると説かれ、それは大小の河川がすべて大海に流れ込むようなものであると喩えられる。さらに、ある一つの法を修めれば大いなる畏敬の念と軛からの大いなる安穏へと導かれることが示される。この部分の内容は、このファイルの範囲である55ページを越えてさらに続いている。
  24. Page 56–60 身至念の功徳とアマタ・ヴァッガ(不死品)(一集の終わり) 前の部分に続き、身至念(身体全体に対する気づき)を修める功徳として、それが畏敬の念、智慧、解脱、四つの道果、そしてさまざまな智慧の資質へと導くことが示される。次に、身至念を修めない者は不死の法を味わっていないと、さまざまな観点(味わわない、失う、逃す、放逸する、忘れる、親しまない、修めない、証知しない、遍知しない、現証しない)から説く反復形式の短い経が続き、身至念が不死(涅槃)への道であることが強調される。そして増支部の一集(第一の集)の終わりで締めくくられる。
  25. Page 61–63 ヴァッジャ・スッタ:現世で見られる罪過と来世の罪過 二集(第二の集)が始まる。仏陀は二種の罪過、すなわち現世で目に見える罪過(ディッタダンミカ・ヴァッジャ)と来世の罪過(サンパラーイカ・ヴァッジャ)を説かれた。王が盗賊をさまざまな方法で罰する様子を詳細かつ凄惨に描き、人は法による刑罰を恐れて悪を行わないことを示された。一方、来世の罪過とは悪業の果報として悪趣に赴くことである。仏陀は比丘たちに、あらゆる罪過から免れるためにこの二つの罪過を恐れるよう教えられた。
  26. Page 63 パダーナ・スッタ:行いがたい精進 仏陀は、世において行いがたい二種の精進を説かれた。すなわち、在家者が生活のための四資具を求める精進と、出家者があらゆる執着の依り所(ウパディ:煩悩や執着するもの)を捨てる精進であり、あらゆるウパディを捨てるための精進の方が優れていると示された。
  27. Page 63–64 後悔を生む法と後悔を生まない法 相反する二つの法が示される。すなわち、後に心を悩ませる法(タパニーヤ・ダンマ)――身・口・意の悪行を行い、善行を行わなかったこと――と、心を悩ませない法(アタパニーヤ・ダンマ)――その反対――である。現在の自らの行いが、後の苦悩あるいは安らぎの原因となることを教えている。
  28. Page 64–65 アッパティヴァーナ・スッタ:退かない精進 仏陀は、自ら見出した二つの法、すなわち善法に満足しないことと精進において退かないことについて語られた。よく知られた誓願として、たとえ肉と血が干からびて皮と腱と骨だけになろうとも、人の力によって得るべきものを得るまでは精進を捨てない、という言葉を挙げ、それが自らの正覚の由来であったと述べられた。そして比丘たちにも同じように精進を起こすよう教えられた。
  29. Page 65 楽味の観察と厭離の観察 二つの法が示される。すなわち、束縛となる法(サンニョージャニヤ・ダンマ)に楽味を見て観察することは、貪・瞋・痴を捨てられず苦から解放されない原因となり、その法に厭離を見て観察することは、煩悩を捨てあらゆる苦から解放される原因となる。
  30. Page 65–66 黒い法と白い法、そして世を支える慚と愧 黒い側の法(カンハ・ダンマ)、すなわち悪に対して恥じないことと恐れないこと(無慚・無愧)と、白い側の法(スッカ・ダンマ)、すなわち慚(ヒリ)と愧(オッタッパ)が示される。次に仏陀は、この慚と愧こそが世を支える法であり、それがなければ母、母の姉妹、師の妻といった社会の関係が、畜生のように入り乱れて区別されなくなってしまうと指摘された。
  31. Page 66 ヴァッスーパナーイカー:二種の雨安居入り 雨安居に入る日の二つの形、すなわち前安居(プリミカー)と後安居(パッチミカー)が示され、二集の第一章であるカンマカラナ・ヴァッガが締めくくられる。
  32. Page 66–69 バラ・スッタ:思択力と修習力 仏陀は二つの力を、異なる文脈で三度繰り返して説かれた。すなわち、思択力(パティサンカーナ・バラ:悪行の過患を観察して捨てる力)と修習力(バーヴァナー・バラ)であり、後者は七覚支と四禅の両面から、有学の聖者が貪・瞋・痴を捨てるために用いる力として説明される。最後に、如来は略説と詳説の二つの仕方で法を説かれることが示される。
  33. Page 69–71 罪を犯した比丘と告発する比丘の自己省察 仏陀は、いかなる争議(アディカラナ)においても、罪を犯した比丘と告発する比丘の双方が自らをよく省みなければ、その争議は長引いて激しくなり、僧団は安らかに暮らせないが、双方が自らをよく省みれば、その争議は速やかに鎮まると説かれた。そして互いに恨みが生じないよう、それぞれの側の比丘がどのように自らの心を省みるべきかを詳しく説明された。
  34. Page 71–72 バラモンとの対話:悪趣と善趣の原因 あるバラモンが、ある衆生は悪趣に生まれ、ある衆生は善趣に生まれる原因を尋ねた。仏陀は、それぞれ法に反し道に外れた行い(アダンマチャリヤー・ヴィサマチャリヤー)と、法にかない正しい行い(ダンマチャリヤー・サマチャリヤー)によるものであると答えられた。バラモンは浄信を起こし、優婆塞(在家信者)となることを表明した。
  35. Page 72–73 ジャーヌッソーニ・バラモン:なしたこととなさなかったこと ジャーヌッソーニ・バラモンが、悪趣と善趣の原因について同じ問いを投げかけた。仏陀は簡潔に「なしたこと(カタッター)となさなかったこと(アカタッター)による」と答えられた。バラモンが理解できなかったので、それは身・口・意の悪行あるいは善行をなしたことを意味すると詳しく説明された。バラモンは浄信を起こし、優婆塞となることを表明した。
  36. Page 73–74 アーナンダ:一向になすべきでないこととなすべきこと 仏陀はアーナンダに、身・口・意の悪行はなすべきでなく、身・口・意の善行はなすべきであると一向に(例外なく)説くと語られた。アーナンダがその過患と功徳を尋ねると、悪行をなせば自らを責め、智者に非難され、悪評が広まり、死後は悪趣に生まれ、善行はその逆の結果をもたらすと説明された。
  37. Page 74–75 不善を捨て善を修めよ――それは可能であり利益があるから 仏陀は、不善を捨て善を修めよと説くのは、不善を捨てることと善を修めることが実際に可能であり、それを行えば苦ではなく利益と安楽につながるからであると教えられた。この教えの実践的な根拠を、二度繰り返される簡潔な論理によって確かめられた。
  38. Page 75 正法を消滅させる法と存続させる法 正法を衰え消滅させる二つの法、すなわち語句を誤って置くことと意味を誤って解することが示され、正法を存続させる法、すなわち語句を正しく置き意味を正しく解することが示される。教えを正確に保つことの重要性を示しており、第二のアディカラナ・ヴァッガを締めくくる。
  39. Page 75–76 過ちを見ることにおける愚者と賢者 愚者には二種があり、過ちを過ちと見ない者と、他者の謝罪を法にかなって受け入れない者であると示される。一方、賢者とは過ちを過ちと見、謝罪を法にかなって受け入れる者である。これは僧団の中で共に暮らすための原則である。
  40. Page 76–77 如来を誹謗すること 如来を誹謗する(偽って言いがかりをつける)ありさまが三つの面から示される。すなわち、怒りによって、あるいは誤って捉えた信によって語ること、如来が語らなかったことを語ったとし、語ったことを語らなかったとすること、そして解釈を要する意味の経(ネッヤッタ)を明らかな意味の経(ニータッタ)であるとし、あるいはその逆とすることであり、いずれも如来の教えを歪めるものである。
  41. Page 77 行いを隠す者・明らかにする者の行き先と、森に住む理由 行いを隠す者、邪見をもつ者、戒を破る者の行き先は地獄か畜生であり、行いを明らかにする者、正見をもつ者、戒を保つ者の行き先は天か人間であると示される。また仏陀が森の住処に住まわれる二つの理由として、自らの現世における安楽のためと、後の世代の人々を憐れむためであることが示される。
  42. Page 77–78 止と観:明に属する法 明(ヴィッジャー)に属する二つの法、すなわち止(サマタ)と観(ヴィパッサナー)が示される。止を修めれば心が育ち貪りを捨てることができ、観を修めれば智慧が育ち無明を捨てることができる。結論として、心解脱は貪りを離れることから生じ、慧解脱は無明を離れることから生じると説かれる。第三のバーラ・ヴァッガ(愚者品)を締めくくる。
  43. Page 78 不善人の地と善人の地 不善人の地とは恩を知らず恩に報いないこと(アカタンニュー・アカタヴェーディー)であり、善人の地とは恩を知り恩に報いることであると示される。恩を知り恩に報いることは聖者たちが称える法であり、善きことの基盤であると説かれた。
  44. Page 78–79 恩に報いることの難しい二人:母と父 仏陀は、母と父は最も恩に報いることの難しい人であると説かれた。たとえ両肩に担いで百年にわたり世話をしたとしても、恩に報い尽くしたことにはならない。なぜなら両親は子を養い、この世界を見せてくれたという大きな恩があるからである。しかし、信のない両親を信へ、戒を破る両親を戒へ、物惜しみする両親を施しへ、智慧の少ない両親を智慧へと導く者こそ、真に両親の恩に報いたといえる。
  45. Page 79–80 作業論と非作業論 あるバラモンが、ゴータマはどのような説を唱えるのかと尋ねた。仏陀は、自らは作業論者(キリヤ・ヴァーディー)でもあり非作業論者(アキリヤ・ヴァーディー)でもあると答えられた。すなわち、身・口・意の悪行はなすなと説き(アキリヤ)、身・口・意の善行はなせと説く(キリヤ)という意味である。バラモンは浄信を起こし、優婆塞となることを表明した。
  46. Page 80 アナータピンディカ長者が供養に値する人について尋ねる アナータピンディカ長者は、供養に値する人(ダッキネッヤ・プッガラ)には何種あり、どこに施しをすべきかを尋ねた。仏陀は、有学と無学の二種があると答え、これらの人々は供養する者にとって最上の福田であるとまとめる偈を説かれた。
  47. Page 80–83 サーリプッタが内なる結と外なる結をもつ人を説く サーリプッタは比丘たちに法を説いた。内なる結(サンヨージャナ)をもつ人(戒を具えているがなお欲貪に引きとめられている人)は、死後天に生まれ、再びこの世に戻ってくる(一来)。一方、外なる結をもつ人(心解脱を得て、欲と生存に対する厭離・離貪のために修行する人)は、もはや戻ってこない(不還)。ある天の一群がこの説法を仏陀に称えたので、仏陀はサーリプッタのもとに赴き、それらの天のように諸根を静め鎮めるよう教えられた。
  48. Page 84–85 マハーカッチャーナ:諸階級が争う原因 アーラーマダンダ・バラモンがマハーカッチャーナ(大迦旃延)に、なぜ王族・バラモン・資産家が互いに争うのかと尋ねた。マハーカッチャーナは、それは欲貪への執着と束縛によるものであり、沙門たちが争うのは見解への執着によるものであり、欲貪と見解への貪りの両方を超えられたのはただ世尊のみであると答えた。バラモンは浄信を起こし、優婆塞となることを表明した。
  49. Page 86–87 マハーカッチャーナ:真の長老の定義 カンダラーヤナ・バラモンは、マハーカッチャーナが年老いたバラモンに敬意を示さないことを非難した。そこでマハーカッチャーナは、仏陀が老いた者と若い者の境地を次のように示されたと説明した。すなわち、年齢を重ねていても欲に溺れている者はなお愚者であり、長老と呼ぶべきではない。一方、欲に溺れていない若者こそ真の長老と呼ぶべきである。バラモンは浄信を起こし、若い比丘にひれ伏して礼拝した。
  50. Page 87–88 盗賊と王の譬え:悪い比丘と良い比丘 仏陀は次のように喩えられた。盗賊が王より力をもつときには国が安らかでないように、悪い比丘が戒を具えた良い比丘より力をもつときには、良い比丘は沈黙して辺境に退かざるをえず、それは多くの人々の利益とならない。しかし王が盗賊より力をもつとき、あるいは良い比丘が悪い比丘より力をもつときには、多くの人々の利益と安楽となる。
  51. Page 88 邪な実践と、経の誤った把握・正しい把握 仏陀は、在家者であれ出家者であれ、誤った実践(ミッチャー・パティパダー)を称賛されないと示された。それは正しい法の証得に至らないからである。また、誤った語句に従って経を誤って把握し、意味と法に反するに至る比丘は、多くの人々の衰退をもたらし正法を消滅させるが、正しく把握する者は正法を保つことができると示された。第四のサマチッタ・ヴァッガを締めくくる。
  52. Page 88–96 パリサ・ヴァッガ(衆品):十組の会衆の特徴 会衆(僧団)の特徴が、相反する十組の対として続けて示される。すなわち、浅い会衆と深い会衆、分裂した会衆と和合した会衆、優れたものをもたない会衆ともつ会衆、聖諦を知ることにおいて尊くない会衆と尊い会衆、劣った会衆と清らかな会衆、誇示によって訓練された会衆と問いかけによって訓練された会衆、物質的な利得を重んじる会衆と正法を重んじる会衆、法にかなった行いにおいて平等でない会衆と平等な会衆、法にかなわない会衆と法にかなう会衆などであり、いずれの対でも後者が優れていると示される。これは僧団の質を判断する基準として用いられ、二集の前半五十経(第一の五十経)が終わる。
  53. Page 96–98 世の利益と安楽のために生まれる人と、雷にも動じない者 如来・阿羅漢・正等覚者と転輪聖王は、多くの人々の利益と安楽のために出現する二人であり、稀有な人であり、その死は多くの人々を深く悲しませ、仏塔に祀られるにふさわしい人であると示される。また如来と辟支仏(パッチェーカ・ブッダ)をともに仏陀であると比べ、漏尽の比丘を、象・馬・獅子王といった優れた血統の生き物に喩えて、たとえ雷が落ちても動じない者であるとされる。
  54. Page 98 キンプリサは偽りを語らないこと、女性が飽き足りない二つのこと キンプリサ(人間ではない存在の一種)は、二つの過患を見るので偽りを語らないと示される。すなわち、自ら偽りを語りたくないこと、そして事実でないことで他者に言いがかりをつけたくないことである。また、女性は死ぬまで二つのこと、すなわち性交と出産に飽き足りることがないと示される。
  55. Page 98–100 平穏な共住と平穏でない共住 長老・中堅・新参の比丘が平穏でなく共に住むありさま、すなわち互いに相手を否定的に思い、相手に諭されたくなく、諭されれば怒るという様子と、平穏に共に住むありさま、すなわち互いに心を開いて善意からの忠告を喜んで受け入れ、怒らないという様子が示される。これは年齢の異なる比丘たちが僧団の中でどのように身を処すべきかの指針である。
  56. Page 100 争いとなった争議:鎮まるか否か いかなる争議においても、双方が互いに反論し合い、見解に執着し、恨みを抱いて不満をもち、内心がなお静まっていなければ、その争議は長引いて激しくなるが、内心が静まっていれば長引かないと示される。後半五十経(第二の五十経)の第一章であるプッガラ・ヴァッガ(人品)を締めくくる。
  57. Page 100–102 スカ・ヴァッガ(楽品):十数組の楽 楽が相反する十数組の対として続けて示される。たとえば、在家の楽と出家の楽、欲の楽と離欲(ネッカンマ)の楽、依り所(ウパディ)のある楽とない楽、漏のある楽と漏のない楽、身の楽と心の楽、喜のある楽と喜のない楽などである。いずれの対でも、煩悩を離れた楽、あるいは欲から離れる方向の楽(離欲)の方が、世俗の楽よりも常に優れていると示される。
  58. Page 102–104 サニミッタ・ヴァッガ(有相品):不善法の生起の原因 同じ形式の短い経の連続として、あらゆる不善法は相(ニミッタ)、因縁、行、受、想、識、あるいは形成された対象があるからこそ生じるのであり、何もないところから生じるのではないと示される。それらを捨てることが不善法を滅する道である。不善には必ず因縁があるという原則を強調している。
  59. Page 104–105 ダンマ・ヴァッガ(法品):対になった法の一覧 ほとんど説明を加えずに、対になった法を短く続けて挙げた一覧である。たとえば、心解脱と慧解脱、策励と不散乱、名と色、明と解脱、有見と無有見、無慚と無愧、慚と愧、忠告を受け入れにくいことと悪友をもつこと・忠告を受け入れやすいことと善友をもつこと、界に巧みであることと作意に巧みであること、罪に巧みであることと罪から出ることに巧みであることなどである。重要な法の対を一つの区分にまとめたものである。
  60. Page 105–108 バーラ・ヴァッガ(愚者品):正誤の認識における愚者と賢者(後半五十経の終わり) 正誤の認識に関して、愚者と賢者がさまざまな面から示される。たとえば、まだ来ていない重荷を担ぐこと・すでに来た重荷を担がないこと、ふさわしくないものをふさわしいと思い・ふさわしいものをふさわしくないと思うこと、罪でないものを罪と思い・罪を罪でないと思うこと、非法を法と思い・法を非法と思うこと、非律を律と思い・律を非律と思うことである。そして同じ内容を、誰に漏が増し誰に漏が増さないかという枠組みで繰り返し、真実に即した正しい認識の重要性を強調する。後半五十経(第二の五十経)が終わる。
  61. Page 108–110 アーサー・ヴァッガ(希望品):捨てがたい希望と、貪・瞋・見の原因 第三の五十経が始まる。捨てがたい二つの希望、すなわち利得への希望と生命への希望が示される。世に得がたい人は、先に恩を施す者と恩を知る者、満ち足りた者と他者を満ち足らせる者であり、満足させがたい人は、得たものをただ蓄える者と次々に捨ててしまう者である。また、貪・瞋・邪見・正見が生じる因縁は、相(ニミッタ)あるいは他者から聞くことと、非如理作意あるいは如理作意とが結びつくことによると示される。さらに罪(アーパッティ)の二種、すなわち軽い・重い、粗悪な・粗悪でない、残余のある・残余のないものが示され、第一のアーサー・ヴァッガが終わる。
  62. Page 110 弟子の比較の基準:サーリプッタとモッガッラーナ 信のある比丘が「私もサーリプッタとモッガッラーナのようになりたい」と願うべき基準(トゥラー)が示される。この二人は比丘の弟子の基準である。また信のある比丘尼は、比丘尼の基準であるケーマーとウッパラヴァンナーのようになりたいと願うべきである。信のある優婆塞についての内容が始まるが、このファイルの終わりにあたるため途中で切れており、その続きは次の部分にある。
  63. Page 114 母と父、そして如来に対する誤った振る舞い、アーヤーチャナ・ヴァッガの終わり 愚者を誤った振る舞いへと導く二つの法についての二つの経である。すなわち、母と父に対する誤った振る舞いと、如来とその弟子に対する誤った振る舞いであり、それは自らに悪と損失をもたらす。これと対照的に、賢者はこれらの人々に対して正しく振る舞う。続いて短い対の法が三つ示され、アーヤーチャナ・ヴァッガが締めくくられる。すなわち、心を清らかにし世の何ものにも執着しないこと、怒りと怨恨、そして怒りと怨恨を取り除く法である。
  64. Page 114–116 ダーナ・ヴァッガ(施品):財施と法施 ダーナ・ヴァッガは短い経が続く一連のものであり、それぞれの対で物質的な施し(アーミサ)と法による施しが比較される。すなわち、施し(ダーナ)、供犠(ヤーガ)、捨(チャーガ)、喜捨(パリッチャーガ)、受用(ボーガ)、共同の受用(サンボーガ)、分配(サンヴィバーガ)、摂受(サンガハ)、援助(アヌッガハ)、憐れみ(アヌカンパー)などである。いずれの対においても仏陀は、「法施」すなわち法を施すことは物を施すことよりも常に優れていると結論づけられる。それは心と智慧を助けるものであり、より永続的な価値をもつからである。
  65. Page 116–118 サンターラ・ヴァッガ(歓待品):法による歓待と探求は世俗のものに勝る サンターラ・ヴァッガはダーナ・ヴァッガと同じ形式で、物質的なもの(アーミサ)と法によるものとの比較の対をもう一組示す。すなわち、歓待(サンターラ)、親しいもてなし(パティサンターラ)、探求(エーサナー、パリエーサナー、パリイェッティ)、供養、客としての礼遇(アーティテッヤ)、神通、繁栄、宝、蓄積、豊かさである。いずれの対も、法によるものが物質的なものより常に優れているという結論で終わり、人生のあらゆる面において法の価値が物質の価値に勝るという考えを繰り返し示している。
  66. Page 118–120 サマーパッティ・ヴァッガ(等至品):増大と衰退の法の対、第3の五十経の終わり 修めるべき側と捨てるべき側の両方について、対になった法を示す短い経の連続である。たとえば、等至(サマーパッティ)に巧みであることと等至から出ることに巧みであること、正直さと柔和さ、忍耐と温和、諸根の門を守らないことと食の量を知らないこと(衰退の側)に対する、門を守ることと量を知ること(増大の側)、思択力と修習力、止と観、戒の欠損と見の欠損、戒と見の清浄、そして念と正知である。最後に、第3の五十経が終わったという言葉で締めくくられる。
  67. Page 120–123 五十経に含まれない経:さまざまな煩悩の対と善趣・悪趣の結果 五十経のまとまりに含まれない経の一群であり、省略形(ペッヤーラ)を用いて、さまざまな煩悩の対を型どおりに繰り返し示す。たとえば、怒りと怨恨、覆(偽善)と悩害(傲慢)、嫉妬と物惜しみ、誑と諂、無慚と無愧、そしてそれらに対する善の側の対である。これらの煩悩をもつ者は苦しんで暮らし、有学の法から退き、死後は地獄に生まれるが、これらの煩悩を離れた者は安楽に暮らし、退くことなく、死後は天界に生まれると示される。最後に、同じく省略形を用いた他の不善と善の法の対の一覧で締めくくられる。
  68. Page 123–124 学処と諸々の律を制定する二つの理由 如来が弟子たちに学処(戒律)やさまざまな規則を制定された理由が、二つずつの組で説明される。すなわち、僧団の安楽のためと恥を知らない者を制するため、現在と未来の漏と怨みや危険を防ぐため、在家者を憐れむためと悪い欲をもつ者の徒党を断つため、そして正法の確立のためである。同じ原理によって、波羅提木叉(パーティモッカ)や、律におけるさまざまな僧団の羯磨、たとえば呵責羯磨、別住の付与、具足戒(ウパサンパダー)、草覆地(ティナヴァッターラカ)の律などの理由も説明される。
  69. Page 142 パチェータナ王と車輪職人の物語:急いで作った車輪と入念に作った車輪 パチェータナ王の車輪職人の譬え話である。職人は片方の車輪を六か月かけて欠点がなくなるまで入念に作ったが、もう片方はわずか六日で急いで作った。二つの車輪を転がすと、急いで作った車輪はふらついて倒れたが、入念に作った車輪は車軸に取り付けられているかのようにまっすぐ転がった。仏陀は、自らが前世でその車輪職人であり、木の曲がりに精通していたこと、そして今は身・口・意の曲がりと欠陥に精通していることを明かされた。これらの曲がりを捨てていない比丘は、急いで作った車輪のように法と律から転落するが、それを捨てた者は入念に作った車輪のように揺るがない。
  70. Page 142–144 漏の尽滅のための確かな道:根を守り、食の量を知り、覚醒に励む 比丘を誤りのない確かな道に進ませ、漏の尽滅のための正しい出発点となる三つの法が示される。すなわち、さまざまな対象を知覚するときに相や細部にとらわれずに六根を守ること、食べるのは楽しみや身を飾るためではなく、身体と梵行を保つためであると省察して食の量を知ること、そして覚醒に励むこと、すなわち昼も夜の初めと終わりの時分も経行と坐禅によって障りとなる法から心を清め、夜の中ほどの時分だけ獅子臥の姿勢で念をもって休むことである。
  71. Page 144–145 自他を害する行為と、天界のための梵行と言われることへの恥 身・口・意の悪行は自分自身を、他者を、そして両者を害する原因となり、それに対して身の善行などは誰をも害さないことが短い経で示される。次に仏陀は、もし外教の出家者から「沙門ゴータマは天界に生まれるために梵行を修しているのか」と問われたなら、比丘は困惑し、恥じ、厭うべきであると説かれた。天の神々の天上の富でさえ、それが梵行の目的であるならば困惑すべきことであり、ましてや身・口・意の悪行に対してはなおさら直接に困惑し恥じるべきだからである。
  72. Page 155 最も多くの恩恵を与える三種の人 他者に多くの恩恵を与える三種の人が示される。すなわち、その人に依ることで仏・法・僧に帰依するようになる人、その人に依ることで四聖諦をありのままに理解するようになる人、そしてその人に依ることで優れた智慧によって漏からの解脱を得る人である。最後の種類の人の恩恵が最も大きく、これ以上に大きな恩恵を与える人はおらず、礼拝し、立って迎え、四資具を供養しても、その恩に十分に報いることはできない。
  73. Page 155–157 傷口、稲妻、金剛石に喩えられる心 三種の人を心の性質によって喩える経である。怒りっぽくすぐに苛立つ人の心は、木の枝や石に触れただけですぐに膿が流れ出る爛れた傷口のようである。四聖諦をありのままに理解した人の心は、暗闇の中で一瞬ものの姿を見せる稲妻の光のようである。そして漏の尽きた阿羅漢の心は金剛石のようであり、世の何ものもそれを壊したり貫いたりすることはできない。これは智慧の成長に応じた心の堅固さの段階を示す譬えである。
  74. Page 157–158 戒・定・慧に応じて交わるべき人と交わるべきでない人 交わりについて三種の人が示される。戒・定・慧において自分より劣る人とは、慈しみと憐れみによる場合を除いて交わるべきではない。同等の人とは、戒・定・慧について共に円滑に法を語り合えるので交わるべきである。自分より優れた人とは、自らの足りないところを満たすために敬意をもって交わるべきである。最後に、自分より劣る人と交わる者は衰え、同等の人と交わる者は衰えず、より優れた人に近づく者は速やかに向上するので、自分より高い人と交わるべきであるという偈で締めくくられる。
  75. Page 183 布薩についての帝釈天(サッカ)の偈 神々の王サッカ(帝釈天)はかつて三十三天の神々に、自分のような者は半月の大切な日に布薩(ウポーサタ)を守るべきであるという偈を説いた。仏陀は、この偈はサッカがよく説いたものではないと指摘された。サッカ自身はまだ貪・瞋・痴、生・老・死から解放されていないので、そのように語るのはふさわしくないからである。むしろ漏の尽きた阿羅漢である比丘こそがこの偈を語るにふさわしい。なぜならその比丘は生・老・死とあらゆる苦から真に解放されているからである。
  76. Page 183–186 仏陀の優雅な生い立ちと三つの驕り 仏陀は、王子であった頃のきわめて安楽な暮らしについて語られた。蓮池があり、カーシー国産の衣をまとい、季節ごとに三つの宮殿があった。しかし、自らもかつて嫌悪していた他の人々と同じく老い、病み、死ぬ性質をもつと省察されたとき、若さの驕り、無病の驕り、生命の驕り(三つの驕り)を完全に捨てられた。さらに、教えを聞いたことのない凡夫はこれらに驕ると身・口・意の悪行をなし、悪趣へと至ると説かれた。最後に、涅槃を得るために再び欲に戻ることはないという決意を示す偈で締めくくられる。
  77. Page 186–190 三つの主導とデーヴァドゥータ・ヴァッガ(天使品)の終わり 仏陀は、森に住む比丘のための三つの主導(アディパテッヤ:拠り所として重んじる原理)を示された。すなわち、自己主導(苦から解放されるために出家した者にふさわしくない振る舞いを恥じる、自己を重んじること)、世間主導(天眼をもつ沙門・バラモンや神々に自らの悪を知られることを恐れる、世間を重んじること)、法主導(よく説かれた法と律を敬う、法を重んじること)である。これら三つはいずれも、不善を捨て善を修める動機となる。悪をなす者に隠れ場所はなく、神々と如来はそれを見ているという偈で終わり、最後に第四のデーヴァドゥータ・ヴァッガの全項目をまとめる摂頌で締めくくられる。
  78. Page 204 今の世に人間が減っている理由 ある大富豪のバラモンが、昔は町や村が人々で満ちていたのに、今は人間が少なくなっているのはなぜかと尋ねた。仏陀は三つの原因を説明された。今の時代の人々は、ふさわしくないものに貪欲を抱き、異常なほど貪り、鋭い武器を手に取って互いに殺し合うこと、雨が季節どおりに降らず飢饉が起こること、そして夜叉が猛獣や人間でない存在を放って人々を害することである。そしてこれらはすべて人々自身の不善業の結果であるとされる。
  79. Page 204–207 ヴァッチャゴッタ遊行者:布施と階級にとらわれないこと ヴァッチャゴッタ遊行者は、仏陀が自分とその弟子にだけ布施をせよと教えているという噂について尋ねた。仏陀はそれを否定し、他者が布施するのを妨げる者は、施す者の功徳と受ける者の利得を妨げ、まず自分自身を損なうと説かれた。器を洗った水を汚水溜めの生き物に注いでやることさえ功徳となるが、戒を具えた者への布施は、戒を破る者への布施よりも大きな果報がある。最後に、どの階級に生まれようとも、よく自らを調え、戒と真実を具えた者は、生まれに関わりなく等しく尊い福田となりうるという有名な偈で締めくくられる。
  80. Page 207–212 ティカンナ・バラモン:真の三明 ティカンナ・バラモンは、本来の意味での「三明者(テーヴィッジャ)」、すなわち純粋な血統を受け継ぎ三ヴェーダを修め終えたバラモンを称賛した。仏陀は、聖者の法と律における三明の意味はまったく異なることを示された。すなわち、四禅を修めて心を清らかにした比丘が三明、つまり宿住随念智(過去の生を想起する智)、死生智(衆生が業に従って死に生まれ変わるのを見る智)、漏尽智(聖諦を覚知して漏を尽くす智)を得ることであり、それはバラモンの三明とは比べものにならないほど優れている。ティカンナ・バラモンはそれを受け入れ、優婆塞となることを表明した。
  81. Page 324 牢に入れられる貧者と富者、羊を殺す者の譬え 前の経に続き、世尊はさらに譬えを挙げられた。貧しい人はわずかな借金でも投獄されることがあるが、富める人や王は同じ額の借金で投獄されることは決してない。また貧しい羊飼いは羊を盗めばすぐに罰せられることがあるが、富める人や王であれば誰も罰する勇気がなく、かえってへつらって返してもらうよう頼まねばならない。このように、同じわずかな悪業であっても、身・戒・心・慧を修めていない者には重い結果をもたらし、よく修めた者には軽い結果をもたらすことが示される。こうして、梵行を修めることには利益があり、実際に苦の終わりをなしうることが確かめられる。
  82. Page 324–326 金の精錬と心の随煩悩を捨てることの譬え 世尊は金の精錬に喩えられた。まず土・砂・砂利などの粗い不純物を洗い流し、次に粗い砂や細かい砂などの中程度の不純物を洗い流し、最後に黒い砂塵などの細かい不純物を洗い流して、純金だけが残り、金細工師がそれを溶かして装身具を作ることができるようになる。同様に、増上心を修める比丘は、粗い随煩悩(身・口・意の悪行)、中程度の随煩悩(欲・瞋恚・害意の思考)、細かい随煩悩(家系・故郷・名声についての思考)を順に捨て、ついには真の三昧に適した心だけが残る。
  83. Page 326–329 清らかで安定した心から生じる六神通 比丘の心が静まり、安定し、法についての思考という段階の随煩悩さえも離れると、それは真の三昧となり、もはや努力によって無理に抑える必要がなくなる。このように整った心から、比丘は望むままに心を向けて六神通を覚知することができる。すなわち、神変(さまざまな神通力を示すこと)、天耳(人間と神々の声を聞く天の耳)、他心智(他者の心を知ること)、宿住随念(過去の生を想起すること)、天眼(衆生が業に従って死に生まれるのを見る天の眼)、漏尽智(漏を尽くし、この生において解脱を得ること)である。
  84. Page 329–330 増上心を修める比丘が作意すべき三つの相(未完) 世尊は、増上心を修める比丘は三つの相、すなわち定の相、策励の相(精進の相)、捨の相を、時に応じて交互に作意しなければならないと教えられた。いずれか一つだけを常に作意すれば、心は怠惰や散乱に陥り、あるいは漏の尽滅のために安定することができなくなる。そして金の精錬において、火を吹き、水を振りかけ、ただ静かに見守ることを交互に行う金細工師の譬えを挙げ始められるが、この経の内容はまだ終わっておらず、次のページに続く。